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ローマの信徒への手紙を読む(第13回)
パウロはユダヤ人と異邦人という区別立てをしつつ、続けて語る。
この区別立ては確かに成り立つ。
なぜならユダヤ人と異邦人とは区別し得るからである。
ユダヤ人−イスラエルが神の選びの民であり、
律法−神の言葉を聞く特権にあずかっていたという点で。
しかし、ユダヤ人たちは神がなさった区別立てを、
いつしか自分たちの都合のよいようにすりかえてしまった。
すなわちユダヤ社会に従来からあった、
そしてユダヤ人たちの間では常識的であった異邦人
との区別は、自分たちは神の民であるゆえに正しく、
一方異邦人たちは罪人であるというものだったのである。
それは福音書におけるファリサイ人や律法学者たちの姿に、端的にあらわれた。
「ファリサイ」とは区別するという意味の言葉である。
義人である自分を罪人である異邦人や徴税人と区別して、
彼らの汚れから身をきよく保つために近づかない、
それがそこでの「区別」であった。
この区別を根底から打ちこわしたもうたのが主イエスである。
主イエスは異邦人や徴税人とも親しく交わられた。
そして、あなたはなぜこのような者たちと一緒に食事をするのかと
問うたファリサイ人たちにお答えになった。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、
行って学びなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである」(マタイ9:10〜13)
主は旧約の預言者ホセアの取りついだみ言葉を引きつつ、
形式的に律法の規定を守ることや儀式を行うことが大切なのではなく、
神をおそれ、神を愛し、神に信頼し、ゆだねて生きることこそが大切なのだと、
またご自分が世に来たりたもうたのは
罪人であるゆえに神の赦しの恵みを必要とする者たちを招くためなのだと、
ファリサイ人たちに語りかけたもうたのである。
福音の本質にかかわるみ言葉である。
パウロもまた、ここでユダヤ人たちに言う。
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、
義とされるからです」(13)
神の言葉を有していること、また聞いていることがすべてではない。
重要なことはみ言葉に従い、神の前にまことに悔い改めてへりくだることである。
これこそ、ユダヤ人と異邦人とを問わず、すべての人間をはかる唯一のはかりである。
律法を知らない異邦人であっても、神のみこころを行うなら自分自身が律法だと言える。
逆に律法を知っているユダヤ人であっても、
みこころを行わないなら、その律法によって裁きを受ける。
ここでも、あの従来の「区別」は根本的に覆されている。
パウロの言葉を聞いたユダヤ人たちの衝撃の深さがうかがわれるのである。
17節以下で、パウロはあなたがたは律法をわきまえていると語る。
しかしこれはユダヤ人たちへの皮肉であろう。
パウロがほんとうに言いたかったことは、
あなたがたは神を知っているようで知らず、
あなたがたの目には神も、自分自身も見えてはいないのだということではなかっただろうか。
にもかかわらず、彼らは「盲人の案内」「闇の中にいる者の光」
「無知な者の導き手」「未熟な者の教師」を自負する。
「人を教える難しさに最も鈍い者が
人を教える情熱に取りつかれるのではあるまいか
人の暗がりに最も鈍い者が
人を救いたいと切望するのではあるまいか」(吉野弘)
自分では気づいていなかったかもしれないが、
彼らは律法を教えながらみずから律法に背き、
「律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮」(23)る、
そのような悲惨な自己矛盾におちいっていた。
「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」(24−イザヤ52:5の引用)とのパウロの言葉は、まさにユダヤ人たちの急所をつく、
震撼すべき言葉であったはずである。
これは新約のイスラエルであるわたしたちのありようをも
深く問う言葉ではないだろうか。
いけにえではなく憐れみに生かされる幸いに身を置く者として、
今一度おのが姿をかえりみてみたい。
(2006.12.13 祈祷会)
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