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1章18節からこの3章まで、パウロは相当の紙数をさいて
人間の罪の問題を論じてきた。
彼はまず異邦人の偶像礼拝の罪を指摘し、
さらに神の選びの民であるユダヤ人の罪をも明るみに出した。
3章9〜20節は、その人間の罪をめぐる論述のしめくくりの部分である。
そしてパウロはこれまでの議論を引き継いで言う。
「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(9)
10(b)〜18節の引用部分は、詩編14編をはじめ
旧約聖書のいくつかの箇所をまとめたものである。
いずれにせよ「正しい者はいない、ひとりもいない」(10)
「善を行う者はいない、ただのひとりもいない」(12)−これが結論である。
このようにパウロは、すでに旧約聖書が
人間の生まれながらの罪をはっきりと語っている事実を示すのである。
さらに、自分たちの正しさを信じて疑わなかったユダヤ人たちが、
ここに言われているのは異邦人たちのことであって、
自分たちのことではないと誤解することのないように、
たたみかけるようにして言われる。
「すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています」(19)
20節に言われる。
律法を実行することによっては、だれ一人義とされない。
律法によっては、罪の自覚しか生じない。
これは、律法そのものが悪しきものだということではない。
律法そのものは神の聖なる、義なるみ言葉である。
律法はこの新約の時代にはすたれたと、
それゆえに無意味なものとなったと考えるなら、それは正しくない。
主イエスも言われる。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)
律法はよきもの、聖なるものである。
しかし、律法を実行することによっては、だれ一人義とされない。
なぜなら人はみなアダムにあって罪人だからである。
楽園におけるアダムの堕落と不従順によって「わたしたちの本性はこのように毒され、
わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくる」(ハイデルベルク信仰問答問7)からである。それゆえに「律法によっては、罪の自覚しか生じない」のである。
ユダヤ人たちはこのところを誤解した。
彼らは選びの民である自分たちもまたアダムにあって生まれながらに原罪を背負っている者たちであることをいつしか忘れてしまった。
そして、自分たちの力で律法を守ることが救いだと考えた。
律法を自力で守り行ない、その功績によって神に義と認めていただこうと考えたのである。
この律法主義こそが、そしてそこにともなう傲慢こそが、
ユダヤ人たちにおける問題であったのである。
人はみな生まれながらに罪人である。
律法を守り行うことにおいて無力である。
それゆえに律法主義、すなわち自己義認の道は、
すべての人間にとって自己矛盾の道でしかない。
なぜならそれは、生来罪深き者が神の完全な正しさときよさとに近づいていこうとする、人間がみずからを神にまつりあげていこうとする、まことに無謀な道だからである。
この道の果てに、ユダヤ人たちがイエス・キリストを十字架に追いやっていったことを、わたしたちは忘れてはならない。
神の選びの民が、みずからの手で神のひとり子を十字架につけた。
この驚くべき歴史の事実に、わたしたちは慄然とする。
しかし、これはユダヤ人だけの問題ではない。
おのれを神とする志向は、すべてのアダムのすえのうちに抜きがたくに宿っている。
イエス・キリストを十字架に追いやったのは、わたしたち自身の罪でもあるのだ。
まことの救いにあずかるために、人はおのが罪と正面から向き合わねばならない。
義人なし、ひとりだになしとの事実の前に立たねばならない。
もしも律法を守り行う道が唯一の救いの道であったとしたなら、わたしたちには希望はない。
けれども幸いなことに、神は罪におちたわたしたちのために
もうひとつの道を備えてくださった。
恵みによって生きる道である。
イエス・キリストの贖いを信じる信仰によって罪赦され、命にいたる道である。
その道について、パウロはいよいよ語り始めるのである。
(2007.1.10 祈祷会)
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