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24節の「贖い」とは、本来奴隷が自由の身となるために支払われるべき身代金、
代価のことである。
奴隷が自由になるためには、代価が支払われねばならない。
それが、なすべきことがなされるということである。
ところで「贖い」ということのひとつの意味は、
奴隷が自力で積み立てた資産を主人に支払うということである。
そうすれば、彼は自由の身となれる。
しかしこれまで見てきたように、すべての人はユダヤ人と異邦人の別なく、
始祖アダムにあって生まれながらに罪人、罪の奴隷である。
それゆえに、自力によって自分を贖い、自由とすることはできない。
義を積み上げることが代価を支払うということであり、
義人となることが釈放の条件である。
が、生まれつき不義なる者が義人となることなど不可能である。
それゆえ、人は死ぬまで罪の奴隷であり続けるほかはない。
それこそが、聖書の語る人が罪人であるということの意味である。
そして、罪の支払う報酬は死である(6:23)。
わたしたちは、この生まれながらの罪と死のさだめから、
どのようにして救われ得るのだろうか。
まことに感謝すべきことに、神はわたしたちを罪と死の束縛からときはなつために、
み子イエス・キリストを遣わし、このお方をわたしたちのための贖いとなしてくださった。
このお方はわたしたちとことなって、まったく罪のないお方であった。
その生涯において完全なる義を貫き通された。
そのようなお方が、十字架につけられて死なれた。
十字架は罪の刑罰である。
その場所で、罪人はおのが罪の正当な代価を支払う。
つまり死ぬ。
死は罪の刑罰である。
もし人が十字架につけられて死ぬということがあるとすれば、
それは彼が自分の犯した罪の代価を支払ったということにすぎない。
彼の死はしたがって、人類の救いにも彼自身の救いにもならない。
しかし、罪なきお方が、そうであるにもかかわらず罪の報酬を支払いたもうた。
義人が、そうであるにもかかわらず不義の刑罰を受けたもうた。
なぜそのようなことが起こったのか。
すなわち、このお方はわたしたちの代わりとして、あの十字架の上で尊き血潮を流されたのだ。
神の子キリストはわたしたち罪人のひとりとなられ、わたしたちの罪の現実のただ中に入って来られた。
そしてわたしたちの死を代わってその身に引き受け、死なれた。
これが贖いである。
キリストの死は、わたしたちの罪の代価である。
ほんとうは、神に対して代価を支払うべきはわたしたち自身であった。
しかし、神がわたしたちのために、
おんみずから愛するひとり子を十字架に死なせたもうた。
みずからこの尊き代価を支払ってくださった。
ひとり子を死なせるほどに、わたしたちを愛してくださった。
神のこの愛ゆえに、わたしたちは罪と死の牢獄から釈放され、
自由の身となったのである。
永遠に自由の身なのである。
神はみ子の義をあたかもわたしたち自身の義であるかのように、無償でわたしたちに着せてくださった。
わたしたちを義人としてくださった。
それゆえにわたしたちは、もはや罪の報酬を支払って死ななくともよいのである。
これがキリスト・イエスの福音である。
命とは何か。罪とは何か。救いとは何か。
この世にはさまざまな教えを説く人々があり、さまざまな救いの道が語られている。
しかしわたしたちは、救いの道をこの世の言葉や知恵によっては知ることはできない。
この世のどのような知恵者も、みずからを救うことはできない。
天来の言葉に教えられることによってのみ、
わたしたちは真の救いについて知ることができる。
まことの神を知り、神の言葉である聖書に聞くことによって、
人は罪から救われるための道筋をはっきりと見出すことを得るのである。
神がみ子イエス・キリストを通してわたしたちのためになしとげてくださったこと。
そのことによってわたしたちは救いを受けた。
キリストの、十字架の贖いによってただ恵みにより、無償で義とされる道こそ、
すべての人間にとっての救いの一本道なのである。
そして、この恵みの道を通っていくことによってのみ、
わたしたちは神の栄光を受ける。
罪ゆえに神の栄光をこの身をもってあらわすことのできなかった者が、
ふたたび神の栄光のために生きる者とされるのである。
(2007.1.24 祈祷会)
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