|
神はみ子キリストを、「罪を償う供え物」となさった(25節)。
キリストの血潮は、多くの人々の罪のために流された契約の血である。
わたしたちの罪のために、キリストは罪なき方であられたのに十字架につけられて死なれた。
その死はわたしたちのための身代わりの死であり、わたしたちに代わって支払われた罪の代価であった。
この代価によって神の義は満足させられ、それゆえに神はわたしたちを義とし、わたしたちと和解し、わたしたちを死から命へとうつしてくださった。
聖餐のパンを食べ、杯を飲むときに、わたしたちはこの恵みの事実を確かめる。
神がみずからわたしたち罪人に近づき、わたしたちとひとつとなり、わたしたちの存在の奥深くにまでご自身の恵みを届かせてくださった事実を心に刻む。
聖餐の食卓こそ、まさしくわたしたちにとっての恵みの座である。
神の義と人の罪とは相容れない。
両者はあたかも水と油のようにはじきあう。
それゆえ罪人が神との和解にいたるためには、神と人とを隔てている罪が贖われ、取り除けられねばならない。
この聖なる秩序は、旧約の昔から一貫して変わることも揺らぐこともない秩序である。
それゆえにこそ神は旧約の民イスラエルにも、動物の血による贖罪の恵みを備えておられた。
そして、その贖いの恵みはただ一度ほふられた神の小羊キリストの十字架のみわざによって成就した。
旧約時代における罪のための供え物は、人が神の前にほふってささげる供え物であった。
年に一度「贖罪の日」と呼ばれる日に、大祭司は神殿の至聖所に入り、犠牲の小羊をほふって七度その血を契約の箱の蓋に注ぎかけた。
では、イエス・キリストという供え物はどうであろうか。
このお方は人が神に向かって供えた供え物ではない。
父なる神がみずから、ご自身の義を満足させるためにお立てになった犠牲の供え物である。
神はご自分と罪深きわたしたちとの和解をなしとげるために、ご自分のほうから働きたもうた。
すなわち愛するみ子を人となし、神が人となって世にくだるというこの奇跡のみわざによって人間の歴史の中に歩み入り、このお方を犠牲の小羊となしてわたしたちのあらゆる罪と弱さと悲しみとを担わせ、このお方を十字架にお見捨てになることによってわたしたちの古き人を滅ぼし、そしてこのお方を三日目に死から甦らせたもうことによってわたしたちを義とし、子として迎え、もはや罪にも死にも支配されない永遠の命に生きる新しい人としてくださったのである。
これらのことをすべて神おひとりがなさった。
わたしたちは何もしなかった。
罪人がただ恵みによって救いを受けるとはそういう意味である。
古きアダムにある罪人は、生まれながらに造り主から離れようとし、自分を神とし、自力で義人となる道を行こうとする。
しかしそのような道はユダヤ人であろうと異邦人であろうと袋小路でしかないのだということを、パウロはここまでのところで説き明かしてきた。
そのような者たちにとっては、十字架は躓きの場所であろう。
福音書を見ると、主イエスが十字架につけられたとき、十字架を取り囲んでいた人々は主イエスを見上げ、もしもお前が神の子ならまず自分を救え、自分自身を救って十字架からおりてこいと口々に叫んだ。
自分で自分を救うことのできない人間は、アダムのすえにとっては最大の躓きであろう。
しかし信仰に生きる者たちには、十字架の贖いの恵みが見える。
十字架の愚かさ(一コリント1:18以下)の中に隠された神の救いの秘義が見える。
まことに信仰によって、人は見えないものをはっきりと見る者とされるのである。
神はわたしたちの救いのために、いっさいをなしてくださった。
この神の恵みのみわざを信仰を持って、感謝して受け入れることによって、わたしたちは救いを受ける。
わたしたちが信仰によって生きるとは、わたしたちの命と存在の根源を自分自身の中にではなく、わたしたちのためにみ子を十字架に死なせ、三日目に甦らせてくださったお方のうちに持ちつつ生きるということである。
今や時は満ち、神の義が示された(26節)。神の義は神に背き続ける人間を打ち滅ぼすことによってではなく、神がイエス・キリストを罪人のための犠牲の供え物として立て、このキリストの恵みを信じる信仰によって無償で義とする、そういうしかたで示されたのである。
まことに感謝すべきことである。
(2007.1.31祈祷会)
|