信仰義認が旧約と新約とをつらぬく真理であることを証明するために、パウロはアブラハムに言及し、彼が信仰によって義と認められたと語る創世記15章6節を引用した。
4章4、5節で、パウロはこの点についてさらに言葉を継いで論じる。
ここでは事柄をわかりやすくするために、パウロはたとえを用いる。
すなわち「働き」と「信仰」を比較し、「報酬」と「恵み」をも比較する。
つまり「働き」の結果得られるものが「報酬」であるのに対して「信仰」の結果得られるものは「恵み」なのである。
わたしたちは労働の見返りとして賃金を受け取る。
報酬は、働きに対する正当な報いである。
それはまた、労働しなければ報酬を得ることはできないということである。
しかし、報酬は恵みとは呼ばない。
なぜなら恵みとは代価を差し出すことなしに受け取るものだからである。
神はわたしたちを救いたもうに際して、何の働きもお求めにはならない。
何の功績も行いも必要とはなさらない。
ただイエス・キリストの十字架の贖いの恵みを信じる信仰のみによって、神はご自身の恵みによってわたしたちを義としてくださるのである。
そのことを証明するために、パウロはアブラハムとともに旧約聖書を代表する信仰者であるダビデの言葉をも引用する。
6〜8節は詩編32編からの引用である。
アブラハムもダビデも信仰により、恵みによって生きた。
信仰による義こそ永遠に揺らぐことのない福音の真理であることを、旧約時代の証人たちを実際に引用しながら、パウロは跡づけてみせるのである。
救いにおいては神の恵みだけでは足りない、十字架のみわざだけでは心もとない、だから人間の側でも何らかのものを差し出して、神と協力しなければならないとの考えが、どうかすると頭をもたげてくるということはないだろうか。
しかしそのように考えられるときには、人はただ信仰によって義とされ、恵みによって救いを受けるとのあの真理が揺るがされるのである。
アブラハムに関して、ひとつのことを確かめておきたい。
創世記15章7節以下に、神がアブラハムとの間に契約を結ばれたことが記されている。
聖書では契約とは、神と人との交わりをいう。
神は始祖アダムにあって罪におちた人間との間に恵みの契約を結ばれ、もういちどご自身との愛の交わりを回復してくださった。
この契約は、イエス・キリストの贖いと復活によって完成し成就した。
聖餐の食卓で主イエスがパンと杯をかかげて、これはあなたがたとの間に結ぶ新しい契約であると仰せになるとおりである。
神がここでアブラハムとの間に結ばれた契約は、このイエス・キリストにある恵みの契約の先触れともいうべきものであった。
15章9節以下によると、神はアブラハムに、獣を真っ二つに切り裂き、それぞれをたがいに向かい合わせて置くようにとお命じになった。
12節によると、その後アブラハムは深い眠りにおちた。
そして17節によると、突然煙を吐く炉と燃えるたいまつが、二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。
煙を吐く炉と燃えるたいまつは、神の臨在のしるしである。
すなわち、神ご自身が通られたのである。
そしてこれは、神がアブラハムと、また彼の子孫との間に結ばれた契約の、誓いの儀式であったのである。
このときの神の約束は、エジプトからユーフラテスにいたる土地をアブラハムの子孫に与えるというものであった。
聖書において土地はいのちの象徴でもある。
つまり神はこの契約によって、アブラハムにつらなる者たちにいのちの祝福を与えることを約束なさったのである。
そして炉とたいまつが獣の間を通り過ぎたというのは、もしもこの約束をわたしの側で破るようなことがあったなら、わたしはあなたの手でこの獣のように二つに裂かれてもかまわないとの神の意思表示である。
神はこの約束を守られた。
ひとり子イエス・キリストをわたしたちにたもう愛によってである。
神の約束は確かである。
ところで、神はこの契約において、ご自身にはこのような義務を課せられたのだが、アブラハムに対してはどうであったのだろうか。
実はアブラハムの側には何の義務も誓いもお求めにはならなかった。
彼は何もしなかった。
彼はこのとき、深い眠りにおちていたのである。
(2007.3.7 祈祷会)
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