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前回見たように、神がイエス・キリストの贖いのみわざによってわたしたちと和解してくださったゆえに、わたしたちは神との間に平和を得ている。神との平和を得ていることが、すなわち救いを受けているということなのである。そして、この神との平和は決して揺らぐことはない。なぜならこれは神のみわざにもとづいているからである。人がなしたことではなく、神がなしたもうたことであるゆえに、この祝福はいかなる人間の側の条件にも状況にも揺るがされることはないのである。
ただ、神との平和を得ている以上もうわたしたちはいかなる苦難にあうこともないかと言えば、そうではない。イエス・キリストを信じて生きている人はこの世のあらゆる苦難から免れると考えるなら、それは違う。キリストを信じる人々も苦難にあうのだということは確かめておかねばならない。
しかし、苦難には意味がある。苦難は決してむなしいものではない。わたしたちは、苦難の意味について語る聖書のみ言葉に耳をかたむけるべきである。一般には苦難は忌まわしいもの、できればかかわりたくないもの、遠ざけておきたいものと考えられている。人はできることなら苦しみのない、あるいは苦しみの少ない人生を送りたいと願うであろう。しかし聖書の語るところによれば、苦難にも積極的な意義がある。苦難もまた益なのである。
苦難をその人や家族の罪の報い、また前世の因縁というふうに考え、そのわざわいのもとを断ち切るならば宿命が転換して、苦難から逃れることができると教える教えもある。たとえば旧約聖書のヨブ記において、苦難に悩むヨブを慰めようとした三人の友人たちも、あなたの苦しみはあなた自身が知らずに犯した罪の報いにちがいないのだから、その罪を悔い改めるようにとヨブに忠告した。こうした因果応報の思想にも、苦難とは遠ざけるべきものである、人生におけるマイナス要因であるとの考え方を見ることができる。
では、パウロは何と言っているのだろうか。「そればかりではなく、苦難をも誇りとします」(3)
前回も見たように、誇りとするとは土台とするという意味である。つまり終わりの日に「神の栄光にあずかる希望」(2)がキリスト者の人生の土台であるように、苦難もまた土台となりうるというのである。あるいはこの「誇り」という言葉を「喜び」と訳している人もある。いずれにせよパウロは苦難を誇りと呼び、喜びと呼ぶのである。これは、苦難は忌まわしいものだ、人生のマイナスでしかないと考える人々にとっては、耳を疑うような言葉ではないだろうか。が、パウロのみならずイエス・キリストを信じて歩むすべての者たちにとっては、苦難は人生の土台であり、喜びなのである。
苦難は人生のマイナス要因である、苦難は忌まわしいものである、それはそのとおりである。
しかしよく覚えておきたい。もしもイエス・キリストというお方がいまさなかったとしたら、もしもイエス・キリストがわたしたちとともにおられ、ともに歩んでくださらなかったとしたら、苦難はただひたすらに苦難である。キリストにある希望がないところでは、実際にわたしたちはおのおのの人生の苦難に耐えることはできないであろう。将来に希望も持てないのに耐え続けるということはわたしたちには不可能である。
けれども、実に苦難はイエス・キリストに結びつくとき、方向転換をするのである。イエス・キリストを信じる信仰によって、苦難は意味なきものから意味あるものに、価なきものから価高きものに変えられるのである。聖書のみ言葉を通して、わたしたちはそのことをはっきりと確かめることができるのである。
イエス・キリストの十字架のみわざにもとづく神との平和が保証されるのは、わたしたちの生活が順調なときだけではない。それは苦難のとき、試練や逆境にあるときにも動くことはない。そしてイエス・キリストを信じて生きるということは、まさに苦難に直面しているところで、苦難のただ中でイエス・キリストを信じるということである。苦難と信仰とが並んでいるということではない。苦難にうちかったところではじめて信仰の道が開けるというのでもない。苦難に遭遇している自分自身を、愛しまつるキリストにゆだねる。そこでこそわたしたちは苦難もまた益であることを学び知るのである。
(2007.5.23 祈祷会)
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