|
今回から6〜8節を見たい。パウロは5節で、神の愛がわたしたちの心に注がれていると語っていた。イエス・キリストを信じて生きるわたしたちの心(聖書では「心」とは命の中心という意味である)は今すでに神の愛によってあますところなく支配されているというのである。だからこそイエス・キリストを信じて歩む者には希望がある。
そして6節以下では、その神の愛とはどのような愛なのかということについて、さらに深く論じられていくのである。
その神の愛ということを論じるときに、パウロはイエス・キリストの死を語り示す。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(6)
神の愛とは何か。そのことを語るときに、パウロはイエス・キリストの十字架の死について語らずにはおれなかったのである。神の愛とはたんなる幻想や、人間が勝手につくり出したアイディアといったものではない。神の愛はこの世のただ中に現実に示された。ひとつの歴史的な出来事として示された。それはキリストの十字架の死という出来事である。
このキリストの死については、この出来事のほんとうの意味を知らない歴史家たちにも記すことはできたはずである。イエスというひとりの人物がローマ帝国の手によって、ポンテオ・ピラトの裁きを受けて犯罪人として処刑されたといった書き方で書き記すことができたはずである。
しかしわたしたちは、十字架が歴史的事実であったということとともに、そのほんとうの意味をも知らなければならない。
そして十字架の意味は、神ご自身によってあきらかにされた。だれでもキリストのみ霊によらなければ、それをさとることはできないが、聖霊はみ言葉を用いてわたしたちにもその奥義を知らしめてくださった。すなわち、それは神の愛のしるしである。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストはわたしたちの罪を贖うために死んでくださった。このことによってわたしたちに対する神の愛が示されたのである(8)。
キリストの教会は、この神の愛を罪人に知らしめる聖霊の働きによって生み出された。主イエスはわたしたちのために死んでよみがえられたとの福音のみ言葉を、これを聞くひとりひとりに聖霊がさとらせてくださったことによって、これを信じ受け入れる民がひとりまたひとりと起こされて、教会はこの地上に誕生したのである。
わたしたちはこの聖霊の導きによって、十字架の「事実」と「意味」の双方をあざやかに知らされる恵みにあずかった。十字架の事実を知り、さらにその意味を知るとき、信仰は生まれる。
わたしたちはよく神の愛ということを口にする。しかしパウロは、神の愛ということをただ漠然と語ることはできなかった。彼が神の愛について語るときには、いつも主イエスの十字架が目の前にくっきりと描き出されていたのである。彼にとって神の愛について語るということは、そのまま十字架について語ることであった。このように神の愛は具体的なものである。神は生きておられる。この生ける神が十字架という歴史的出来事をとおして、わたしたち人間への愛を生きてお示しになったのである。
わたしたちは聖書を学ぶ中で、このわたしのために死んでくださったお方があったという事実を知った。このわたしを、身代わりに十字架に死ぬほどに愛してくださるお方があったということを知らされた。これはわたしたちの人生において決定的なことではなかっただろうか。この愛の事実を知ったからこそ、わたしたちはイエス・キリストを信じ、受け入れたのではなかっただろうか。今もこのお方こそ救い主であると告白しつつ生きているのではないだろうか。
わたしたちはあらためて、イエス・キリストの十字架のみわざを覚えたい。イエス・キリストがわたしたちのために死なれたこと、そしてこのキリストの死の事実にこそ、わたしたちが今生かされている命のもといが置かれていること、まさしくわたしたちは神の愛によっておのおのの命を生かされていること、このことを心に深く刻みたい。
|