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今回から5章12〜21節を学んでいく。ここはアダムと主イエス・キリストとを並べ、イエス・キリストを第二のアダムとして語っている。が、ここでパウロが語っていることは、決して雲の上の議論などではない。実はこれ以上ないほど、現実的な話なのである。
まず、ここで語られているのはアダムとキリストというふたりの人(もちろんキリストの場合には、永遠のみ言葉が人となられたお方だということが覚えられねばならないが)である。 そしてアダムもキリストも、ともにわたしたちと、このわたしと無関係な人間ではない。アダムとはこのわたしであり、キリストもまたこのわたしであると言い得るような、そのように身近な人間なのである。つまりここでアダムについて語られており、続けてキリストについて語られていることを、わたしたちはまさにこのわたしのことが語られているのだということを覚えつつ聞かねばならないのである。パウロ自身もまた、アダムとキリストがほかでもない自分自身であるということをわきまえつつ語っているのである。
さらに言えば、ここでのアダムとキリストの消息は、ただわたしという人間だけにあてはまることではなく、全人類にあてはまる真理である。世界中のすべての人間に妥当する真理なのであ ここで語られているのは人間の根本問題、すなわち罪と死の問題である。12節は、アダムにるよって人類に罪が入り、罪によって死が入ったと言う。
わたしたちは、罪の問題が決して理論や理屈などではないことを知っている。この世界とそこに生きる人々を、罪は支配している。14節に「支配」という言葉があるが、この言葉は暴君が横暴をほしいままにして民を支配するイメージを持っている。そのように、罪は生きてわたしたちを支配しているし、わたしたちの人生はこの罪の支配とのたたかいの連続であるとも言えよう もちろん罪のことがよくわかってくるのは、聖書の理解が深まることによってである。聖書をれば知るほど、罪についてもわかってくる。しかし、たとえば聖書を一度も手にしたことのない人であっても、罪の問題が存在することと、罪によって人は悩まされ、苦しめられるのだということは否定しないのではないだろうか。だれの心にも高慢な思いが住みついていて、それが世界の混乱や人間同士の争いをもたらしているのだということを、だれもがひとまず認めるのではないだろうか。では、罪はどこから来るのだろうか。
同様に死の問題も、論理や理屈ではなく人間の現実そのものである。わたしたちは自分もまたやがて死ぬのだということをわかっていながら、死の不可解ということを思わずにはおれないのではないだろうか。死はどこから来るのか。生命としての死であれば心臓が止まり、脈が止まり、呼吸が停止するというかたちで確かめることができても、そうした現象ではわりきれないものを覚えずにはおれないのではないか。
そういうわけで、罪と死というふたつの問題は、現に存在する大問題であるにもかかわらず、不可解である。人間の理性や力では解決し得ない問題である。いかに人格を磨き、知識や教養を増し加えたとしても、人はだれひとりとしてこの根本問題にうちかち、これを克服する力を持ち得ないのである。
経済的な豊かさを得ること、人生のささやかな幸福を手に入れること、世の多くの人々はこれらのことに関心をはらう。しかしそうしたことのために労するならば、それ以上に取り組まねばならないことがあろう。それは罪と死の克服ということである。主イエスは、人はたとえ全世界を手に入れたとしても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうかと仰せになった。そのとおりではないだろうか。
この人生の根本問題については、神が聖書をとおしてわたしたちに教えてくださる。全人類にあてはまる世界の不動の真理は、ただ神のみが教え示してくださる。その真理の灯台のような聖書箇所のひとつが、このローマの信徒への手紙5章12節以下である。ここに語られているのは、シンプルにして深い世界の真理、救いの真理の言葉なのである。
(2007.7.11 祈祷会)
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