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一人の人、すなわち最初に創造された人間であるアダムが罪を犯した。そして罪によって死が入り込んだ。アダムは罪ゆえに死ぬ者となった。そう12節は語る。
そしてこのことは、ただアダムひとりの事情にはとどまらなかった。アダムにあって、彼の子孫である全人類が罪を犯し、全人類に死が及んだというのである。この「全人類」にはもちろんわたしたち、このわたしも含まれる。すなわちアダムとはこのわたしのことにほかならない。そのような読みかたをせよと、この箇所はわたしたちに求めている。
この点でつけ加えるなら、旧約聖書のヘブライ語では「アダム」とは「人」という意味である。「アダム」はたんに最初に創造された人間の固有名詞ではない。そもそもこの名前には人間そのもの、人間の代表、人間のモデルといった意味が込められているのである。
12節の語ることは、わたしたちの理性やこの世の常識には受け入れがたい、まさしく神秘である。大昔のアダムの罪をこのわたしが受け継いでいる、そんな理不尽なことがあるのか、アダムとわたしとは別人ではないか、わたしたちはそう反論したいのである。
しかし、神の真理と向き合うさいには、人間の常識的判断といったものはひとまず脇において、まず神の言葉に耳を傾けるということも大切ではないだろうか。その教えを受け入れておいてからみ言葉を重ねて学んでいくにつれて、その真理に徐々に目を開かれていくということもあるのではないだろうか。本来、聖書を学ぶとはそういうことではないかと思うのである。ある書物に、聖書の真理を悟る喜びは、自分が真理を発見する喜びであるというよりも、思いにまさる真理が示され、自分を捕らえてくれる喜びであると記されている。そのような喜びにあずかるためには、わたしたちはまず神の前にしもべのようにひれ伏して、み言葉を謙遜に聞き続けなければならない。
わたしたちがここでもはっきりとわきまえておかなければならないことは、パウロはここで決して形式的な、雲の上の議論をしているのではないのだということである。前回も触れたように、罪も死もわたしたちの、この世界の、まさしく現実の問題である。パウロがここで語っていることは、これ以上にわたしたちにとって抜き差しならない、緊急の事柄はない、そういう種類の事柄なのである。
大昔のアダムとこのわたしといったい何の関係があるのかと反問したくなるということを先に述べた。しかし、ひとつ確かなことがある。それはわたしたちは罪を犯すときに、まさにアダムのようにして犯すのだということである。
創世記3章にはアダムと彼の妻エバがどのようにして神の前に罪を犯したのかが記されている。エバは神の言葉よりもサタンの誘惑の言葉にひかれて、食べるなと命じられていた木から木の実を取って食べた。これが罪だとわかったエバは、共犯者をつくるために夫にも食べさせた。
罪を犯したふたりは、神の足音を聞くと恐れて身を隠した。神の問いかけを受けたふたりは、率直に罪を認めるのでなく、その責任を妻やサタンに転嫁し合った。このように共犯者をつくることや、身を隠すこと、責任転嫁をはかることなどは、わたしたちが罪を犯すときにいつもしていることではないだろうか。アダムとはまさしくこのわたしであると言い得るのではないだろうか。
そしてアダムと妻が神から禁じられていた木の実に手を伸ばしたのは、これを食べるならあなたが神のようになれるとのサタンの言葉を聞いたためであった。「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。』」(創世記3:4、5)
わたしたちはよく理解しておきたい。人間の根本的な罪は、神になろうとする罪である。あらゆる罪の根っこには、神をさしおいて自分が神になろうとする、アダムから受け継いだあの野心、あの欲望があるのである。被造物にすぎない者が創造主の地位にのぼりつめようとする、あの悲しく惨めな倒錯があるのである。わたしたちは根本的には、ここから救い出されねばならないのである。 (2007.7.18 祈祷会)
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