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13節に言われる「律法」とは、モーセに率いられてエジプトを出、荒れ野を旅していたイスラエルに、神が神の山でお授けになったみ言葉の戒めである。十戒を思い浮かべるならよいであろう。いずれにせよ神がご自身の戒めを与えてくださったことによって、人ははじめて罪をはっきりと知ることができるようになったということである。
では、そのときまで罪は世に存在していなかったのだろうか。そうではない。それ以前にも罪は世を支配していた。始祖アダムにあって、世界は罪に覆われていた。パウロは具体的にはアベルを殺したカインのことや、バベルの出来事や、ノアの洪水のことを思い起こしていたのかもしれない。ともかく律法が与えられる以前には人は罪を罪として認識していなかったかもしれない、闇の世界にどっぷりと浸りきっていながら、そこを楽園だと思い込んでいたかもしれない、しかし第一のアダムにある罪は世界を暴君のように支配していたのだということが言われているのである。
けれども律法が与えられたことは、人類にとって幸いなことであった。確かに律法によって、人の罪はあらわにされた。が、律法によって罪を知らされ、救いを求めるようになることは、罪を知らされないまま滅びにいたることにまさる。名医と出会って病を発見されて命を取りとめることに似て、人が神の言葉によって罪を知らされることは恵みであり幸いである。そこに救いの道が開かれているからである。
神は律法によって人に罪の自覚を与えてくださっただけではない。アダムの子孫であるわたしたちを、またこの世界を罪から救い出すために、救い主を遣わしてくださった。第二のアダム、イエス・キリストである。
14節は、第一のアダムは第二のアダムを前もって示す者であったと語る。すなわち両者には共通点がある。それは、ともに人間であるということである。ただし、第一のアダムはほんらいあるべきところからおちてしまった人間、あるべき自由を失ってしまった人間である。罪の報酬を支払って死なねばならない人間である。
それに対して第二のアダム−イエス・キリストの人間性は、罪なき人間性である。主は聖霊によってマリアの胎に宿られたのである。
そして、これは実に罪を犯す前のアダムがまとっていた人間性なのである。神が人をご自身のかたちに似せてはなはだよくお造りになった、罪も死もない、永遠の命を生きるべきほんらいの人間のすがたなのである。
第二のアダムが来たりたもうたことによって、わたしたちははじめて知らされた。第一のアダムにあって生きているこのわたしは決してほんとうの命を生きているのではない。罪と死に支配された世界は、決してあるべき世界ではない。世界もこのわたしも救いを必要としている。救われねばならない。
闇に浸りきっているうちはわからなかったけれども、光が来たことによってはじめて闇が闇として見えてきた。第二のアダムを仰ぐことによって、わたしたちはみずからが今どのようなありようであるのか、またどのようなところへと導かれねばならないのか、そこにいたるためにどのような助けが用意されたのかが、わかるようになった。第一のアダムによって長く曇らされてきたこと−世界と人間の真実をはっきりと示す方として、第二のアダムは来られたのである。言は肉となってわたしたちの間に宿られた(ヨハネ1:14)のである。
大切なことを確かめておきたい。それは、アダムはわたしたちにとってすでに過去の人であるということである。今やわたしたちはキリストのものである。キリストにある命を生きる者である。そうである以上、もはやアダムへと戻っていくべきではない。罪や死の話を長々と続けるべきではない。光の中へと招かれた者は、闇にいつまでも固執する必要はない。
とは言え、わたしたちがアダムのことをつねに記憶しているということもまた大切なことであろう。神がわたしたちにいかに大いなる恵みを注いでくださったのか、いかにみじめな境遇から救い出してくださったのかを思い起こし、神をほめたたえるためにである。
(2007.8.1 祈祷会)
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