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先の5章12〜21節では、パウロはわたしたちがすでに今第一のアダムにある罪と死の支配から、第二のアダム−イエス・キリストにある新しい命の支配に移されていることを語っていた
そして6章1節以下では、パウロはこのイエス・キリストにある新しい命とはどのような命なのか、あるいはわたしたちがこの命の支配のもとに生かされるとはどういうことなのか、そのことについて論じる。
そのことを知るために、パウロはローマ教会の信徒たちに、あなたがたは今一度最初の時に、すなわち洗礼を受けて教会の交わりに加えられたその時に立ち戻ってみなさいと呼びかける。 洗礼によって、人はイエス・キリストに合わせられる。まさにひとつに結ばれる。
そしてそれは具体的には、第一にキリストの死にあずかることである。つまりキリストが十字架の上に死なれ、墓に葬られたように、わたしたちの古い人−第一のアダムも、キリストとともに十字架に死んで葬られるのである。わたしたちはそこで文字通り、一度死ぬのである。第一のアダムは、第二のアダムの恵みの力によって息の根を止められるのである。罪のわたしはそこで死ぬ。そしてわたしが死ぬべきであったその死はそこで滅ぼされるにいたる。
この、罪と死に支配された古い人を死にいたらせ、葬り去るイエス・キリストの恵みのみわざは、完全なみわざであった。
十字架のみわざの完全性こそ、わたしたちの救いの確かな根拠である。
同時に、洗礼によってわたしたちはキリストとともに復活し、新しい人間−もはや罪と死の支配から完全にときはなたれた新しい人間として生き始めるのである。
わたしたちは今や新しい人間である。第一のアダムの罪と断絶し、絶縁した人間である。それゆえわたしたちは、もはやこの罪の根から生え出ては来ない。罪の空気の中で息をしない。罪の力にとらわれてはいない。
洗礼の水は、わたしたちの罪を洗いきよめるキリストの十字架の血潮と、聖霊のきよめを象徴するものである。水が体の汚れを洗い流すように、キリストの血潮とみ霊とはわたしたちのすべての罪を洗いきよめてくださるのである。
とは言え、わたしたちは今も日々罪を犯し続けているではないか、罪の残滓は今なおわたしたちをとらえているではないかとの問いも起こってこよう。
しかしキリストの血とみ霊は、かつてわたしたちが犯した罪のみならず、今わたしたちが犯す罪も、また将来犯すであろう罪も、つまりわたしたちの全生涯にわたって犯されるところのすべての罪を洗いきよめるのである。聖霊のきよめのみわざはそれほどに、まさにあふれるほどに絶大なものなのである。
わたしたちはこの贖いの恵みのみ力の絶大さを知るゆえにこそ、日々神のみ前に罪を告白し、赦しのみ声を聞き、絶えざる悔い改めに生きることができるのである。そうである以上、そのような恵みと憐れみのみ手にすっぽりと包まれて生きている以上、もはやわたしたちはなお罪の歩みを重ねつつも、すでに罪と死の支配のもとにはないと言い得るのである。罪と断絶していると言い得るのである。
あるいは、罪と死の支配のもとにはないと言っても、わたしたちはやがて死ぬではないか、キリストを信じる者もひとり残らず死ぬではないかとの問いも起こってこよう。
これについては、キリストにある新しい人の死は、アダムにある古い人の死とはまったくことなる、もはやその意味は転換させられていると答えることができる。新しい人の死は、もはや罪の報酬でも、刑罰でも、神の怒りと呪いのしるしでもない。キリストにある者の死は、聖霊によるきよめの完成である。死は最後の試練であるが、死を通ることによってキリスト者の聖化は完成にいたるのである。キリストがゲッセマネで激しい試練を味わわれたように、キリスト者もこの最後の試練の火によって信仰を練りきよめられ、そしてみ国に迎えられるのである。新しい人にとっては「死は勝利にのみ込まれ」(Tコリント15:54)ているのである。
(2007.9.12 祈祷会) |