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パウロは、わたしは福音を恥としないと言う。
なぜ彼はわざわざこのような言いかたをするのだろうか。
それは、そもそも福音が恥である、
この世にとっては恥であるということがあるからではないだろうか。
福音をあざ笑う人々が存在したからではないだろうか。
実際に、天からのめざましいしるしを求めたユダヤ人たちを残して
主イエスは立ち去られ(マタイ16:1〜4)、
知恵を求めたギリシア人たちが
主イエスの復活の説教をあざ笑うのを見て、パウロ自身も
その場を立ち去るほかはなかった(使徒17:32〜33)。
パウロはコリント教会の信徒に宛てた手紙では、十字架の言葉は愚かであると語る。
けれども、それは神の力であると、
ここでも語っているのだ(一コリント1:18)。
私たちの救い主は、ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の貧困の中に、
か弱く無力な乳飲み子として生まれ、
罪人らの悪しきはかりごとにあって怒りと暴力と嘲笑の渦の中で死なれた。
飼い葉桶から十字架にいたる主イエスの道は、
愚かさと恥とにいろどられた道であった。
人々は十字架からおりて自分を救うことのできない主イエスの無力をなじった。
十字架は、まさしくこの世にとっては、生まれながらの人間にとっては恥であろう。
わたしたちは誰しも、できれば恥をかきたくない。
自分を偽ってでも自分の弱さを隠しておきたい。
つねに強く誇り高い人間でありたい。
そのような人間であるために、
この世において価値あると見なされているものを手に入れるために
努力をかさねる。
しかし、わたしたちはよく考えたい。
わたしたち自身が高く、強く、誇り高くなっていく道は、
果たしてわたしたちを救う道なのだろうか。
むしろ、まさにこの道の途上でわたしたちはまことの羊飼いなる、
造り主なる神に背き、真理と命の道を見失い、
あるべき正義と平和とを大きく損ねてしまっているのではないだろうか。
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
(ルカ1:51〜53)これが神のなさりかただとすれば、
人間がみずから高みへとのぼりつめていく道は、
むしろ滅びにいたる道なのではないだろうか。
おのが力で自分を救い得ると考えているうちは、福音はわからない。
また救いにおいて自分も神の手助けができると思っているうちは、
福音はわからない。なぜなら福音は神の力だから。
ローマでもギリシアでも、ユダヤでも、
このわたしたちの国でも、この世の秩序と価値観が深く根をおろしている。
わたしたち自身も、かつてはそのような価値観を何の疑いもなく
受け入れていたひとりひとりであった。
けれども神はイエス・キリストにおいてご自身の力をあらわし、
この力によってわたしたちを救い、まことの命に通じる道へと
導き返してくださった。
福音において示された神の力は、
神が歩まれた道をわたしたち自身も歩むことによって、
すなわち私たち自身も弱く、貧しく、無力になることによって
はじめて見出すことのできる力である(注意をしていないと、わたしたちは
すぐにこのことを忘れてしまう!)。
神はまことに不思議なことをなさるお方である。
この世が恥とし、つまずかざるを得ない十字架の言葉のうちに、
命と自由の道を用意なさった。へりくだることのできなかったわたしたちが、
今はへりくだることができる。
果てしなくかき集め、奪い続けても決して満ち足りることのなかったわたしたちが、
今は天の宝に満ち足りている。
人を支配し、人を許すことのできなかったわたしたちが、
今はゆるすことの喜びを知っている。
自分の弱さやふがいなさを受け入れることができなかったわたしたちが、
今は分をほんとうに強くしてくださる神をあがめ、
神を誇って生きている。これが神の力だ。
福音書を読むと、この力はこの世には隠され続けていた。
主の弟子たちにさえそれは隠されていた。けれども十字架と復活の光の中で、
主は弟子たちの霊の目を開いて、この力が見えるようにしてくださった。
同じように、主はご自分を信じるすべての者たちの目をも開いてくださる。
そしてご自身の命の力によって生かしてくださる。
(2006.11.1 祈祷会)
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