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13節でパウロは、すべてのアダムのすえを奴隷のように支配している罪の狡猾さ、手ごわさを鮮やかに描き出している。14節では彼は、わたしは罪に売り渡されていると語る。そしてそのように罪に売り渡されている自分を、パウロは「肉の人」と呼ぶのである。
ここに語られているのは、罪に対する人間の隷属状態ともいうべきありようである。自分自身を罪の支配から自力でときはなつことのできる人はいるのだろうか。ひとりもいないというのがパウロの答えである(3章9節も参照)。罪に隷属しているという現実の前では、罪の問題は人間同士の比較の問題ではない。神の義の前では、人の正しさなど五十歩百歩である。罪からの救いという点では、あらゆる人間がひとしく無能力なのである。だからこそパウロは罪を「法則」という言葉で表現するのである。
別の言いかたをするなら、だからこそ救いはただひたすらに神の恵みによると言われるのである。罪からの救い、この場所でこそパウロは人間の限界を見つめている。そしてまさしく人間が無力にされるところでこそ、神の恵みが輝き出るのである。パウロは人間の罪の深みを知り抜いていた。だからこそ神の恵みと憐れみの深さに驚き、神の救いの偉大な力をほめたたえずにはおれなかったのである。
13節の「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらした」とのくだりに、とくに罪の手ごわさ、狡猾さが浮き彫りにされている。罪は律法、神の言葉という聖なるもの、善きものを用いて、本来は人に命の喜びをもたらすはずのものを利用して、わたしに死をもたらした−この言葉には、ファリサイ派の学徒であった回心以前のパウロの経験が色濃く反映しているはずである。
そしてわたしたちは、罪のほんとうの深刻さとは善きものである律法を用い、さらにこの律法を忠実に守り行おうとする人間の善き志をも用いて、人間を死においやっていくところにこそあるのだということをはっきりと覚えておりたい。
誤解を恐れずに言えば、ここでは神を神とも思わないような邪悪な者、あるいは自分の救いに無関心な者のことははじめから念頭に置かれていないのである。ここで想定されている人間とは、少なくとも救いを求める熱心さを持っている人間である。その意味では少なくとも良心的と言い得る人間である。ファリサイ人であったときのパウロも、そのような人であった。
しかし今、パウロは言う。律法が罪なのではない。律法が邪悪なのではない。邪悪なのは律法の掟に乗じてしのびこむ罪である。神の掟に忠実であろうとする人間の良心と、志と、救いを求める熱心や努力を逆手に取る罪である。
人は罪の奴隷である。罪に売り渡された肉の人である。だから「神のことを思わず、人間のことを思」(マルコ8:33)う。律法に従おうとする熱心と努力において、かえって神ではなく自分を誇り、神の義にゆだねるのではなく自分を義とし、自分が神であるかのように高ぶり、他者を見下げる。人が神に聞き従おうとするところで、かえって人の罪は生き返り、生き生きと活動し、人をからめ取り、がんじがらめに縛ってしまう−人間が罪の奴隷である、罪に売り渡された肉の人であるというのは、このような意味である。こういう場所で、パウロは自分自身と全人類の罪の深淵を見据えているのである。
しかし、わたしたちは覚えたい。パウロとともにこのような罪の自覚へと導かれるとき、わたしたちはすでに神に近い者、救いに近くある者である。わたしたちが困窮の中にあり、また罪によって失われた者であるということは、自分自身では知り得ないことであった。神がみ言葉によって教え示してくださったことであった。まさしく聖なる律法を通して自覚せしめられたことであった。すなわち罪認識もまた神の恵みである。パウロは自分を肉の人と呼び、罪人のかしらとも呼ぶ。しかし忘れてはならないことは、彼はすでにキリストの救いの光の中に招き入れられた者として、そのように言っているということである。これはまさしく、真に救われた者のみが語り得ることなのである。
(2008.3.12 祈祷会)
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